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● 朝鮮学校の歴史




 1945年の日本の敗戦(朝鮮の解放)後、朝鮮人の手による朝鮮語教育施設が列島各地につくられていきました。日本の植民地支配によって学ぶことを禁じられ、奪われていた母国の言葉と文化を自らの手に、取り戻すためでした。
 後に朝鮮学校と呼ばれるそれらの学校は、1948年時点では、小・中あわせて462校あり、5万1346人の子ども達がそこで学んでいました。
 しかし日本政府は、この朝鮮人自身の手による朝鮮人のための民族教育活動を敵視し、警察を使ってこれらの朝鮮学校を暴力的に閉鎖していきました。そして代わりに日本の学校に通わせて、朝鮮の子ども達に「日本人教育」を行なおうとしたのです。
 このような状況の中、やむなく日本の学校に通う子ども達も増えていきましたが、一方、閉鎖された朝鮮学校も、さまざまな方法で再びつくられ、運営されていきました。
 そして現在、各地の朝鮮学校(日本の幼稚園から大学に相当する各学校)を合わせて、約1万人の子ども・少年・青年らが、これらの学校で学んでいます。
 しかし、日本政府の差別政策によって、日本の私立学校には行なわれる教育助成金等の「教育保障費」支給が、朝鮮学校に対しては一切行なわれないため、各学校の運営は常に困難を強いられている状況にあります。



● 四国朝鮮学校の歴史




 四国朝鮮初中級学校の前身は、日本の敗戦(朝鮮の解放)直後の1945年11月1日、松山市日の出町の同胞の家の一画で、有志による朝鮮語教室として始められました。その開始に関わられた李福姫さんはその時のことを、「まず思ったことは、自分の魂である言葉や文字を取り戻したということでした。」と語っています。
 1947年には、朝鮮語・歴史・地理・音楽などを教える、いわゆる正規の学校として、松山朝鮮人学校を同市築山町に創立します。
 しかし、1949年、日本政府が発した(朝鮮)学校閉鎖令により、苦労の末に新しく建てたその学校は、警察によって暴力的に閉鎖されてしまいます。
 それでも屈しなかった学校関係者は、オモニ(母親)らを中心に、その再建・運営に奔走し、先生と生徒らは、同胞の家やお寺、製剤所の倉庫などを転々としながら教え、学び続けました。
 そして1954年、同市小坂町に木造4教室・運動場300坪(先生4名・生徒55名)の学校を再建・創設したのです。
 その後の生徒の増加によって、教室の増築などを行ないつつ、1964年には、現在の南斎院に、他市・他県からの児童・生徒を受け入れる寄宿舎も併設した、より規模の大きい学校として、四国朝鮮初中級学校を創設したのです。



各種資料

朝鮮学校の置かれている状況―<日本の現実>の中で、その歴史と現在― →リンク

佐野通夫(こども教育宝仙大学) → PDF



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